兎村彩野|Illustrator / Art Director

いつかその日が来るのかな、という風景。

高校を卒業した春に、母親が黒のスーツを買ってくれた。「何があるか分からないから持っておいてね。」と。

試着室で初めて真っ黒のスーツを着たとき、なにか言いようのない違和感のようなものがあった。映画や漫画の中でしか見たことがない風景が自分のカラダに張りつくような感覚があった。

数珠や黒いパンプスなども一式で用意してくれて「いまはとりあえずコレ渡しておくから、そのうち自分で買い換えなさいね。」と、ひとり暮らしが始まる引っ越しの荷物にスーツと一緒に入れてくれた。

 

スーツは一度だけ祖父の法事に着ただけで、箪笥の中にしまったままになっていた。数年前、久しぶりに着てみたらサイズが合わなくなっていたので処分した。パンプスと数珠はどこで無くしたのか、幾度かの引っ越しの間にいつのまにかなくなっていた。

ここ数年「あぁ、そういえば用意しなきゃなぁ。」と思いつつ、なんとなくその用意することから逃げていたように思う。

 

親戚が少ないこともあって、お葬式や法事があまりない人生だった。黒いフォーマルセットが必要になることがなく、ナニカと別れることがどうも遠く感じていた。自分の中で、別れに対しての経験値が少なく、経験値のなさに想像が追いつかずどこか恐れのようなモノがある。私の知っているその風景は、祖父のお葬式か映画の中のワンシーンかだった。祖父のお葬式がすでに遠い記憶になっており、ここ数年は、本当に映画の中でしか見ていなかったと思う。

 

小さな恐れのようなモノが、私の動きにブレーキをかけるようで、あとで、あとで、あとで、と。ずっとゆるやかに逃げつつも、いつかその日は来るし、その風景は本当にやってくると分かってはいる。黒くなめらかな生ぬるい水みたいな時間に見えた。

 

週末、夫を誘って銀座の百貨店へ出かけた。ついに意を決してブラックフォーマル一式を買った。いつかくるその日が、ちょうど昨日だったのだろうと思う。百貨店の試着室で真っ黒いスーツに袖を通した。あの日、母に連れていってもらったショッピングモールの片隅の若者向けブランドの試着室を思い出した。もう違和感や気持ち悪さはなかった。あぁそうか。私はもう十分に大人になっていたんだと知った。風景を恐れていたけど、どちらかというともう風景の一部になるほど、私は生きていた。

 

女性は生涯平均で4回ブラックフォーマルを買うらしい。百貨店のおばちゃんが言っていた。私の残りはあと2回。多分。

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Illustrator / Art Director 兎村彩野。1980年東京生まれ、北海道育ち。高校在学中にプロのイラストレーターとして活動を開始する。17歳でフリーランスになる。子ども向けの絵(NHKおかあさんといっしょの「黒ネコダンス」や「ながぐっちゃん」など)や女性向けの絵、アウトドアの絵を得意する。ドイツの万年質LAMY1本で描く「LAMY Sketch」が人気になる。
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