ある夜中にとても嫉妬した日があって、深夜二時に夫と突然ホールのレモンケーキを食べ始めた。
ナイフでカットもせず、ホールを両端からフォークでむしゃむしゃ食べ始めるという、なんとも雑なコーヒータイムではあるものの、なんだか深夜二時なら許される気もした。
珍しく嫉妬でふがふがしていたら、レモンケーキを食べながら「大丈夫だよ」と夫は言う。
「嫉妬するって言うことはスタートラインから僕らは出発していて、ゴールが見えていて、その途中に今いるっていう事だと思う。」
フォークを噛みながら少しフリーズ。確かにという腑に落ち感。
「目標に向かっていないならそもそも嫉妬しない。スタートラインを越えていなければ【そうなんだ〜】という感想しかない。目標のゴールにいる人を見たから嫉妬しただけ。てことはあと何年かしたら、僕ら、あそこにいる。だから大丈夫。」
口数の少ない夫は、時々、お告げみたいなことを言う。深夜二時っていうのも、わざわざコーヒーを煎れちゃったってのも、レモンケーキがなぜかホールで冷蔵庫にあるっていうのも、全部とマッチして、あいかわらず今日も良いお告げを聞けたなと思う。
「最初から純度が高いまま自然に辿り着く人もいる。そういう人は幸せだよね。ずっと純度が高いから。でも一度すごく世の中で苦労して揉まれて、色々の後に、すっと【最後の椅子】に座ると、もう余計なコトを言わなくなる純度もある。それも幸せだよね。どっちも純度で幸せ。」
私たち夫婦は、ある目標の生き方やカタチがあり、そのために今、少し我慢をしたり、お金を貯めたり、勉強したりしている。とてもとても地味で、ホントに日々あまり変化の無い時間を、じっと過ごしている。
たまにうわ〜っとなるけど「もうちょっと、もうちょっと。」と上手く自分をなだめつつ、見えているゴールがあり、そのゴールからの更なる作り込みがある。不思議と同じビジョンが夫婦で見えている。
嫉妬には二種類あって「健全な嫉妬」と「不健全な嫉妬」がある。前者は嫉妬対象に敬愛があり、自分たちが目標の途中なのだと再確認出来る嫉妬。後者は敬愛がなく破壊的で人を傷つける嫉妬。
前者の「健全な嫉妬」なら、たまにあってもいい。夫の言葉で思えた。
「色々あって苦労して欲にまみれて、欲を手放して辿り着く純度も良いよね。色々知ってるわけだから。」
その通りだなと思った。失敗したり、欲を持ったり、苦しんだりは人間くさくて、結果、辿り着いた純度のゴールに、純粋だけの結果とは少し違う、渋みとか味わいとかなにかレイヤーのようなものが生まれているかも知れない。完璧でないところから足して削って完全になる。
色々の経験値は人を思いやる想像力に育つから、やっぱりこの人生は夫と一緒にゴールを目指そうと思った。そしてその先で待っている人生の作り込みのターンを多いに楽しもうと思う。
純度を目指すとき、やっぱりとても好きな人が隣にいるという感覚はいいなと思う。私が目指すものはソコからしか産まれない気がするし。
「嫉妬してよかったね。今がけっこう正解ってこと。」
一緒にたまに嫉妬してねとケロッとした顔で言いながら、レモンケーキをそろそろ冷蔵庫にしまうし、寝よう。